その時俺は行きつけの酒場『カクタス』で三杯目のハーパーを開けるところだった。
「大変だエイブ」
飛び込んできたのはマリオ・“熊”・カストリーニ。イタリア系の髭面でがっしりした男。ちなみに俺の名前はアブラーム・アジブ、親のビジネスの都合でハイスクール時代にこっちに移ってそのままニューヨークに居着いてしまったクウェート人。
「どうしたんだ、熊」
「どうしたもこうしたも、ハンナがハングアップしちまったんだよ」
「どうして？」
「どうしてだっていいからとにかく俺と一緒に来い」
そう言ってマリオは俺の腕を引っ張って店を出た。
店の前にはマリオの赤いフィアットが止まっている。マリオは俺を助手席に押し込めると凄い勢いでスタートさせた。
「おい、熊よ、ハンナがハングアップってどういうことだ？」
「なんでも、自分の自我を読み取らせてロボットの頭脳にコピーを作らせる実験中だったらしい」
「またなんでそんなクソくだらねえ事を」
「俺も良くは知らない」
「知ってんのはハングアップしたことだけってか？」
「少し黙れ。運転に集中できないだろ」
そう言いつつもマリオの運転は時速６０マイルを軽く越えていた。
ハンナのアパートは雑然としていた。旧世紀の遺物マックやＩＢＭコンパチマシンがほこりまみれで転がっている。部屋のあちこちにプリントアウトが放り出され、ペプシの空缶やバカルディの空瓶も散らばっている。ハンナは最新機種を置いたテーブルを前に、頭にワイヤを何本も差し込んで、ぴくりとも動かずに座っていた。
「ヘイ、ハンナ。起きなよ。素敵な夜だぜ」
俺はハンナの顔を覗き込むように回り込む。ハンナの顔は完全に表情を失って生きているのか死んでいるのか分からないくらいだった。
「おい、熊。生きてんのか」
「ああ。脈は正常だ」
俺は辺りを見回した。ハンナはいつだって自分のやってることのメモを残している。そして、やはり今回もあった。
個人人格のコピー。脳波パターンを模倣する。自白剤『ハッピースピーク』使用。電極挿入位置は…
「エイブ、なんとかなりそうか？」
「みたところ、自我をコピーする途中でトラウマに触れて殻に閉じこもっちゃったってことだろう。それだけだったら精神科医に診せりゃいいんだが、コンピュータが絡んでるとそうもいかない」
「だからお前を呼んだんだろうが」
「フィフティ・フィフティぐらいだ」
「コンピュータの問題なら何でも解決するんだろ？」
「解決できないとは言ってない。ただ危険なだけだ」
「金なら幾らでも出す」
「歴史上そう言った男の数は数えきれない。そして約束を破った奴もだ」
沈黙が流れた。俺の会社の料金は高い。それでも俺を呼んだって事はマリオも切羽詰まってる。俺の心は決まった。
「マリオ・カストリーニ君」俺はビジネスライクな口調で言った。「支払いは向こう三年間の『カクタス』の代金の肩代わりと言うことでよろしいか」
「そうしてくれれば助かるよ、エイブ」
「じゃあ、決まりだ」
それから準備を始めた。マシンを一台引っ張り出し、ありあわせの基盤でインターフェイスを作ると、二十本ばかりの電極を脳に差し込む。パッシブな奴だから気持ち良くはない。もっとも能動的な電線なんて使う気もしないが。とにかく、マシン同士を接続してハンナのマシンから、人格を読むプログラムを読み出す。とりあえずバグが無いことを確かめる。致命的なバグはない。ＯＫ。開始だ。
「熊、冷えたシャンパンでも用意しとけよ」
「五リットルもあれば足りるか？」
マリオが力なく笑う。
「取り戻してやるよ」
俺はマリオの肩を叩き、『ハッピースピーク』のカプセルを飲み込むと、リターンキーを押した。
最初は穏やかだった。俺と同じ反応をするものがコンピュータのメインメモリ内に形成されていくのが分かる。だが、『ハッピースピーク』が効き始めると様子は一変し、俺は台風で飛ばされた傘みたいにただ弄ばれた。
記憶が次々と再生される。しかもコンピュータで加速されるように情報が引き出されるから、ハッピーに喋ってる暇など無い。舌がぶるぶると震え、俺の意に反してよだれがぼたぼたと落ちてくる。マリオが心配そうに俺の顔を覗きこむ。俺はやっとの思いで手でＯＫサインを出した。
最初の波はまだ言葉を知る以前のあやふやな記憶。それは生々しい感情の塊であった。原始の怒り、原始の悲しみ、喜び、絶望、幸福…。驚くほどの力強さで魂を揺さぶる。しかし、言葉は偉大だ。感情の塊に名前を付けたらそれは秩序に従う記憶の行列でしかなくなった。
次の波は自己中心的な、あまりに自己中心的に過ぎる幼児期の記憶。世界は自分を中心に回っていたし、自分と世界は一致していた。その一体感は甘美な誘惑をもたらす。自分こそは世界の王。否、神ですらある。だが違う。もうそんな誘惑を、欺きを受け入れる自分はいない。自分は世界の一部にすぎないし、世界は自分以外のどこかを中心に回っている。今から見れば歪んでいる世界観は正されていった。
だんだん波は大きくなる。小学校に入って初めて認識する男と女という奇妙な在り方。俺は男で、あの子は女の子。教室で机を並べた同級生たちの名前、顔、髪、服、声、鞄、歩き方の癖、俺はこんなにも色々なことを記憶していたのだ。友達との喧嘩。サッカー、バスケット。初めてゴールを決めた喜び、初めて相手をかわした嬉しさ、初めての…、世界中が新鮮な感動に満たされていた。父と行った釣り。まるで釣れない日もあった。そう、弟も二年生の時に生まれた。やかましい泣き声、嬉しそうな笑顔、小さくて柔らかい手足、強烈な好奇心…。次第に大きくなっていく弟に力強い命を感じたように思う。こんな記憶の群れが俺を襲う。自分の記憶だけに否定しがたいのだが今の感じ方とのずれが気になる。それはやがてストレスを生む。
中学生になると記憶は鮮明度を増す。入学。あまり理想的な生徒ではなかったけれど、数学だけは良い成績だった。そして放課後のバスケット。下手の横好き、と言うのだろう、四年間ほとんど毎日やっていた。家に帰れば日本製のゲームに熱中し、視力ががた落ちた。おかげでコンタクトレンズが生涯の友と化した。世界情勢は緊張緩和から危うく中東戦争再発かというところまで大きく振れた。自然、そういう状況では政治に関心を向けざるを得ない。もっとも、与えられた情報が偏っていたからそれはラディカルなものでなく、いかにイスラエルが悪者かと言うだけのことだった。そして、俺は本当にイスラエルを憎悪していた。自分の思考の跡を辿ると納得してしまうが、今とは違う考えはストレスを増やす。
高校は本国クウェートで一年通い、ここニューヨークに移って入り直した。それはもちろん言葉の問題からであった。（そう言えばハイスクール以前の記憶はアラビア語だった。これがストレスの原因か。）そして俺は恋に落ちた。相手は根っからのアングロサクソン。所詮無理があったのかもしれない。あっけなく破局を迎える。べたべたに惚れまくっている記憶はショートケーキ百個食べるより始末に負えない。それでも失恋の記憶は胸を締め付ける。それから、卒業のお祝いにパソコンを貰った。これがその後の俺を決定付けたと言っても過言ではない。取り憑かれたようにコンピュータに向かっていた。その情熱は今の気分とそう遠くないところにある。だがベクトルの成す角度が小さいほど和は大きい。ストレスは積もるばかりだ。
そして記憶の流れは現在という滝を目指して進んでいく。ＭＩＴには入学できずにニューヨーク州立大へ。理学部数学科に所属。だけど、数学の授業なんてほとんど真面目に受けずにコンピュータに向かっていた。だから成績の良かろう筈はなく、追試を受けなかったのはブール代数と確率論�気里漾Ｂ召歪瓢酊瓢遏⇒鄲茲力�続。それから、ムスリムからクリスチャンになったのもこの時。ハッカー仲間の影響だったと思う。何よりオフラインで会う時ラム＆コークを一緒に飲めなかったのが悲しかったからだ。それ以来酒は我が友。だが、飲まないことに決めている酒もある。ハッカーにとって有り得ないほどの幸運で一時期彼女がいたことがある。その頃飲んでいたフォアローゼズは彼女と（予想通り）別れて後飲んでいない。
大学を五年で出たあと、某大手コンピュータメーカーＩ社に入社。思い出すだけでむかつく上司と喧嘩して飛び出し、Ｄ社Ｔ社Ｍ社と渡り歩き、ついにニューヨークに自分でコンピュータのコンサルティング会社を開く。順調に発展した会社の会長に三十にして楽隠居。そして近所のハッカー連中と遊んで暮らす。そして今日マリオに呼ばれて頭を読ませ、昔の記憶を思い出し、思い出したことを思い出し、思い出したことを…。シマッタコレハエイキュウループジャナイカ。
ドウスレバイイ。
非情なコンピュータは情報を読み取り続け、薬がそれを俺に強制する。
ドウシヨウ。
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出し。
ドウスレバイイ。
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出し。
アア！
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出し。
ヤメロ！
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出し。
ヤメテクレ！
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出し。
ナントカセネバ。
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出し。
ソウダ、カンガエヲテイシスレバ。
思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを思い出したことを、俺は思い出さなかった。
――読み取り中にエラー発生。 再度実行する場合はマウスをクリックして下さい。
俺はゆっくりと目を開けた。マリオは手を組んで頭を垂れ神に祈っていた。
「マリオ」
俺の声はかすれていた。
「エイブ。ハンナは大丈夫か」
俺の声にマリオはそう答えた。
「まだ仕事は半分だ。これから助けに行く」
マリオの顔は露骨に落ち込む。
「安心しろ。助けるのは俺だ」
「頼むよ」
「任せとけ」
俺の手がキーボードを走る。さっきの俺を写したファイルの後ろの部分を整形する。つまりループに入ったところから後ろを削除する。そして俺が何かしないかぎりＣＰＵにＮＯＰ（ノー・オペレーション）を命令し続けるプログラムをくっつける。それから俺はさっきからちらちらする視覚を意識的にもっとちらちらするようにしてみる。予想通りそれはコンピュータの内部に形成された俺の〈コピー〉自我だった。試しにアドレス空間を思い浮かべてみる。それは広大な都市に所々ビルを建てたような景色だった。俺は俺の〈コピー〉自我のあるコンピュータとハンナのそれが接続されていることを確認すると行動を開始した。
ハンナのマシンに偽の優先コードを出して割り込みを掛ける。特権モードを無理やり使ってハンナの自我を読むプログラムを終了させる。形成されたファイルをハードディスクにコピーしその膨大なファイルにざっと目を通す。意外なことに無限ループに入らずに途切れている。情報の切れ目で分解し、小さい順に並べてみる。他人の記憶だから分かりにくい。だがだんだんと頭がこの世界に慣れてきたのか、数字の羅列から絵が見えるようになってきた。小さい情報の塊は本当に小さい記憶。となれば、問題は当然大きいほうの情報。俺はソートを逆順で掛け直す。先頭にきたのはマリオとの最近の会話。二人とも言いたいことが言えないもどかしさの内に気まずい沈黙に導かれて行く、そしてハンナはこう思うのだ。『私が言いたいのはそんなことじゃないの。私が言いたいのはただ貴方が好きってことだけ。』しかしなぜこれが自白剤にうち克って喋るのを止めてしまうほどの効果を持つのだろう。もう一度見直してみる。さっきは気付かなかった心理の揺れが見える。コンピュータが読み取る段階で付け加えられた情報。『なんかちょっと違うのよね。ちょっと。』そして歪み。俺の頭が答えを導き出す。つまり、俺がちょっと気になった感覚のずれに対するストレスに感受性豊かなハンナは耐えられなかったってわけだ。
原因究明と解決は近いようで遠いところにある。俺はしばし考え込んだ。そしてついに楽だがあまりやりたくない解決法を思い付いた。
ハンナの頭にはまだ電線が差し込まれている。それに軽く電流を流してやるのだ。快楽はストレスを解消する。
現実の空間に戻った。ハンナを見る。肌に赤みがさし、やがて目を開けた。そして俺を見て言った。
「エイブ。こんなところで何してるの」
「本当に行くんだな」
「ああ。しばらくここともお別れだ」
『カクタス』のカウンターで俺は最後のラム＆コークを飲んでいた。
「最後にお前に教えてやるよ」マスターは言った。
「ラム＆コークのことをキューバリブレ、キューバの自由って言うんだ」
「それがどうしたんだ」
「知らないんじゃないかと思ってな」
「知らなかった」
この世の中には知らないことが多すぎる。コンピュータは情報を処理はしても、生み出しはしない。そんなものに人生の半分近く向き合ってきた俺は、結局時間を凍結して成長を拒否するピーターパンでしかなかった。コンピュータに頭を読ませてそれがはっきりした。俺は成長しなければいけない。
俺はラム＆コークを飲み干して店を出た。外はまだ黄昏時。バスが出るまで、少し間がある。