歯医者に行った。とんでもない方向に顔を覗かせた親不知を抜くためだ。
一応、レントゲンで歯根の位置と向きを確認して、医者は注射器を徐(おもむ)ろに取り出した。内側の歯茎に針が刺さり、薬が注入される。痛くなくするために、痛い思いをする、というこの行為の矛盾について思考する余裕がまだこの時はあった。
再び医者の手が近付く。またも注射器。今度は外側から。
「いえ」
本人は「痛」と言ったつもりだが、上手く調音されないので間抜けな声になる。
「まだ痛い？」
医者の不審そうな声。
「はい」
口から注射器が抜けてから答える。三本目の注射が打たれた。
「口ゆすいで」
言われるままにコップを取って水を口に含む。生暖かい水が血を洗い流す。…感覚してる。コップを戻すとそれはまた水で満たされた。医者がペンチのような器具を手に迫って来る。
「あがっ」
「え、まだ痛い」
コクコクとうなづく。首を傾(かし)げながら立ち去る医者。そんなことされても…。四本目の注射かと思ったら、単に麻酔の効きが悪い奴と思われたらしく、時計を見てうろうろしてそのまま戻って来た。再び歯が揺り動かされ…
「ががっ」
医者はもう麻酔のことは忘れることにしたらしい。
「あ、がっ、ごっ」
涙。
メリッ メキッ
「…ぉ」
涙が熱い。
ミシッ
「あぁ」
ガリッ
「おっと」
おっとじゃねえっちゅーに。
メキメキ、メキメキ
涙がついに頬を伝い始める。医者はお構い無し。
モゴ
「をを」
グッグッ
「あぁっ…」
顎ごと揺り動かされる。
グッググッ
「んお」
耐えんが為に背筋の反る。
ググッ
「ぉっ」
グキッ
「んんあっ」
モゴッ
―― 静寂。口の中だけはズキズキと脈を打つ。
「口ゆすいで」
それから三日の間、口の痛みが去らなかったことを付け加えるのもあながち無駄な事ではないだろう。