ある日突然12人の30代眼鏡のお兄さんができた。「年上の眼鏡」とは甘美な響き。それにしても皆良く似ていて、眼鏡のフレームでしか区別がつかない。
「本当は弟と呼ぶべきなのか…」
と黙って立っている12人を紹介しつつ父は口ごもった。
「父と呼べというのも…」
「は？」
「あ、つまりその、私のクローンなのだが…」
そう言われれば皆父の若い頃そっくりだ。
「クローンも子どもとして生まれるはずでしょ」
と私はツッコんだ。
「それがどういうわけか肉体年齢30代の一卵性じゅうに…」
呼べない。10を越えると漢語になってしまう日本語の特性が邪魔をする。
「とおあまりふたご？」
古文を5年ぶりに思い出す。
「そう、それだ」
うん、多分そうだ。
「それで？」
「それで、まあ、言葉を憶えるまでは育てにゃならんわけだ」
「言葉を…憶える？ 喋れないの！」
「そうなんだ。こんななりだが、頭の中は赤ん坊だ」
私は絶句した。30代にして赤ん坊、兄にして弟、父にして子、眼鏡にして白痴？
「そういえば、お母さんは？」
「実家に帰った」
逃げたか。
「というわけで、すまんがこいつら、風呂に入れてやってくれんか？」
父が追い撃ちを掛けた。
脱衣場で服を脱がせる。裸で眼鏡の男が私を見つめている。ああもう気が狂いそう。これが別の意味で見つめてくれるのであれば別の意味で気が狂いそうだが。
「ほら、えっと、ねずみ兄さん、おふろ場に行って」
名前は面倒なので十二支だ。脱がせた服を適当に畳んでおく。ふろ場ではねずみ兄さんがきょろきょろしている。
「はい、そこに座って」
言っても聞くわけがない。肩に手を載せて上から押さえつけると、勢い良く転んだ。ねずみ兄さんは涙目で私を見上げる。しまった眼鏡を外し忘れた。椅子を手の平で叩きながら、座ってと繰り返すうちに椅子に興味が移ったようだ。だからといって座るわけではない。床に寝そべったまま持ち上げたり床に打ちつけたり。体は冷たくないんだろうかと、こっちが心配になる。見ていても仕方がないので、椅子を取り上げ床に置いて座って見せ、返してみる。お願い座って。ねずみ兄さんは椅子を持って立ち上り、椅子を自分の後ろに置こうとして、混乱している。しまった高等技術過ぎたか。何を思ったか椅子から手を放すねずみ兄さん。椅子は音を立てて跳ね、裏返しに静止した。その上に座るなよ、と念じつつ、椅子に手を伸ばそうとした顔の横をねずみ兄さんのおしりが垂直に通過した。
「ぎゃーっ」
家中に響き渡る声でねずみ兄さんは痛さを表現した。
「大丈夫かー」
と遠くから父の間の抜けた声が聞こえた。
「そんな調子じゃいつまで経っても終らんぞー」
はっとした。一人30分で片付けても6時間。涙がちょちょぎれて来た。ねずみ兄さんはまだ裏返しの椅子から立ち上がってもいなかった。