祖父が入院した。多分助からないと医者に言われた。祖父も覚悟は決めているようで、死んだ後の話ばかりする。ある日二人だけになった時祖父は僕に言った。
「ベッドの下に鏡を置いてくれ」
「鏡？」
「できるだけ大きいのをな」
「何で？」
「子供の頃に聞いた話だ」
少し祖父は黙った。その話を思い出しているのだろう。
「死ぬと魂はどこに行くと思う」
「天国？」
現実主義の僕にはそもそも魂なんて存在しないとしか思えないけど、そう答えた。大人の分別というものだ。
「それに、地獄かも知れない」
祖父はそう付け加える。僕は黙る。地獄に行きたいの？
「本当は」
そう言って祖父は口の端をちょっと歪める。
「両方に行くんだ」
「両方って、どうやって」
「そこだ。死ぬとな、魂は善と悪を生む。対生成というやつだな」
僕が物理を学んでいるからか、それとも前からそういうことに興味があったのか祖父は時々僕に専門用語を交えて冗談を言う。
「善は上昇して天国に至り、悪は下降して地獄に至る」
僕の頭の中はファインマンダイアグラムから、古典力学の模型に移り変わる。
「それで？」
「半分だけとはいえ、地獄に行くのは気持ちのいいものじゃない」
「まあそうだろうね」
「それで鏡さ。悪の半分も天国に行かせられるんじゃないかと…」
僕は吹き出した。鏡は魂を反射するって？
「お前なあ、死を前にした人間の願いを笑っちゃいかんぞ」
祖父もつられて笑いながら説教を垂れる。
「わかったよ。鏡ね。買ってくる」
夜中、祖父のベッドを家族が取り囲み、白衣の医師の言動と心電図の波形に息を飲んでいた。祖父はゆっくりと眠るように、最後に微かに笑うように息を引き取った。僕にはベッドの下に置いた鏡に反射された魂の半分が、善なる片割れを追って天に昇っていくのが見えるような気がした。