都の郊外の住宅街に、一人の偉大な魔法使いが住んでいた。名前はスプララープスと呼ばれていたが、それが古代の神聖な言葉で「熟れたとうもろこし」という意味なのか「血に染まったユニコーン」という意味なのかは、その複雑な言葉が失われて久しい現在では確かめようもない。ただ色々な言い伝えを総合して、「赤い（又はそれに近い色の）」「円錐形（のもの）」を指すらしいことだけが判っている。それはともかく、彼、スプララープスは、その当時かなり高齢であった。
ある日、一人の男がスプララープスの家を訪れた。いわゆる、政府の役人である。男は自分の身分を明かした後、迂闊にもこう尋ねた。
「魔法使いでいらっしゃいますよね」
魔法使いに向かって、これは最大級の侮辱である。まるで自分をヒキガエルにしてくれと言わんばかりにスプララープスには聞こえた。しかし男はその沈黙をただの肯定だと思ったらしく、事務的に用件を切り出した。
「この度政府は、魔法使いの皆様に、登録をお願いすることになりました。面倒な手続等は全てこちらで処理しますので、こちらの書類にサインだけお願いいたします」
「それで、こちらに何の利益をもたらすというのだ」
「利益、ですか。いえ、特に利益はありませんが、不利益なこともありませんので…」
「ほほう。では何のためにそういうことをするのだ」
「むしろ、ですね。魔法使い以外の方の不利益をなくすため、と申しましょうか」
男は火に油を注いでしまった。
「すると君はこう言いたいわけかね。魔法使いは魔法使い以外の人間にとって不利益をもたらす存在だと。まったく。馬鹿も休み休み言え。役に立つ存在だというならまだしも、不利益とは。どういう不利益があるんだか言ってみろ」
「突然ヒキガエルにされるとか…」
男は突然、ヒキガエルの恐怖に自ら捕えられた。目の前にいる男が魔法使いであり、魔法使いは人をヒキガエルにできる。次の瞬間に自分がヒキガエルになるのではないかと思うと、全身から脂汗が流れ出た。もはやパニックであった。ヒキガエルにされることは既定事実となり、家族には自分が判るだろうか、道で踏み潰されないだろうか、ハエを食べなければならないのだろうか、といった疑問は止まるところを知らなかった。
「望みとあればしてやろう」
スプララープスが追い打ちを掛けるように自信たっぷりに呪文を唱え始めた。もちろん、お茶でも出してみようかと思っただけなのだが、男にはヒキガエルにする呪文だと思われるだろうことは計算済みである。予想通り男は耐えきれなくなり失禁しながら一目散に逃げ出した。
「根性無しめ」
魔法使いは悠然と魔法で取り出したお茶を飲み始めた。
街にスプララープスが役人をヒキガエルにしようとしたという噂が広まった。中には、役人のお腹からヘソが消えた、とか、手だけカエルに変えられた役人は書類を取り落とした、とかいう尾鰭の付いた噂もあった。当然、それは他の魔法使いの耳にも入ったが、彼らは一様にこう思っただけだった。役人が逃れられたのだから、スプララープスは呪文を掛けなかったに違いない、と。そして、特に登録に素直に応じてしまった魔法使いたちは、自分もそういうお遊びを楽しめば良かったとも考えた。
スプララープス自身も、噂は耳にしていた。だが、動じたりはしなかった。噂など、すぐに鎮まることを知っていたからである。
鎮まらなかったのは、為政者達の怒りである。彼らはスプララープスに自らの権威を踏みにじられたと感じた。それは、権威こそこの世の全てだと考える種類の人間である彼らにとって、ひたすら屈辱的な行為であった。もちろん、そのまま事態を放置するわけがなく、彼らは、一人の男をスプララープスの元に差し向けた。ララスクララ。まだ若いが、恐らく、国中でスプララープスに対抗し得る唯一の魔法使いである。
スプララープスは朝から、異常を察知していた。水晶球に見える未来も混沌としており、何らかの事件が自分自身の身の上に降り掛かることを示唆していた。改めて、自分の歳を数え直してみる。先頃百八十を越えたばかりである。魔法が生命力の増大をもたらしたとは言え、十分に長生きした。スプララープスは使い魔の猫を相手に朝食を摂ると、静かに時を待った。
ふいに、外の気配が変化した。
「スプララープス！」
「その声はララスクララか」
「いかにも」
「何用だ」
「判っているはずだ」
しばしの沈黙。
「スプララープス。外はいい天気だぞ」
「散歩の誘いか」
「そういうことを言っていられるのも今の内だけだ」
「お前が聞くのは今の内だけに違いなかろう」
スプララープスは水晶球に外の様子を映してみた。ララスクララの後ろに数人の役人風の男達と、数十人の野次馬。火の玉を作り出すと一般人を巻き込んでしまう。
「ララスクララ！着いて来い」
スプララープスは瞬間移動を数回繰り返し、街の外の荒野に出た。ララスクララも着いて来る。流石に一般人は、これには対応できない。
「ここまで来れば、誰にも邪魔されないだろう」
「体力は大丈夫ですか、御老体」
「ほざけ、この餓鬼」
二人は向かい合い、腰を下ろした。
「さあ、聞こう、ララスクララ。何故に役人どもに加勢する」
「この国に住む者としての当然の義務です」
「義務か。どこにその根拠があるんだ」
スプララープスの口調は穏やかだったが、ララスクララは一瞬躊躇いを見せた。それは、自分の論拠以前の部分への疑問だったからだ。
「お前は若いから、この国があることは当然のことだと思っているだろうが、この国ができて、まだ五十年だ。五十年前、国が無かった頃、何か不便があったと思うか」
「警察が無ければ犯罪者を裁けませんし…」
「そこだ。警察が無い時に果たして犯罪は多かっただろうか。そんなことはない。むしろ犯罪は少なかった。それはお互いが監視しあっていたからではない。お互いを信頼していたからだ」
スプララープスはララスクララの目を確認するように覗き込んだ。
「私を信頼するか」
「はい」
「うん。それだけのことで、警察などいらないのだ」
「解りました。しかし、外敵の侵入にはどう対処するのですか」
「それが、国を作った一つの動機だな。知っての通り、五十年前、東方からゲージニアの侵攻があった。その力に対抗するには、一帯の都市群が連合するしかなかった。それが国と呼ばれる前の北プラスト諸都市同盟だ。互いに兵力を分担し、食糧を供出し、指揮系統をまとめ、徴税を公平に行ない、それを有効に使うために予算も統一した。そうして、国ができていったのだ。ゲージニアは伝染病のために結局撤退したが、それに対抗するための組織は残された。それがこの国だ」
「つまり、外敵の侵入に対処するには国家組織が有効だとお認めになるのですね」
「それを、何も平時まで継続することはなかろうと私は思うのだ」
「しかし、こうして国があるお蔭で商工業の発展が促され、国民は富を得ました」
「富とは何だ。金か」
「それもありますが、いろいろな物が豊富に手に入るようになりました」
「しかし、それを手に入れるには金が必要ではないか。だが、それだけの物が果たして必要だったのか」
「生きるために、という意味では必要でない物も多いです。しかし、それらによって心が豊かになります」
「心を豊かにするのに物をもってする必要があるだろうか」
「必要はないかも知れません。しかし、いずれにせよ豊かになるのは良いことではないでしょうか」
「ふむ。話がずれたようだな」
「…確かに」
「人は国が無くとも生きてゆける」
「そうでしょうか」
「実際に建国前は生きていたではないか。そうだろう。だから、国があることで、何か不利益を被るとすれば、そんな国は無くした方がいい」
「登録することが不利益ですか」
「そうでないと言えるか。そもそも、何故に登録を政治家どもは欲したんだ」
「広い意味で、安全保障のため、という説明でした」
「軍事力を確保しようという理由か。裏を返せば、魔法使いは兵役の義務を負うことになるわけだな。それに、国民でなくなることも許されない」
「しかし、国がない時は、自発的に立ち上がったのでしょう」
「確かにそうだ」
「ならば、同じことです」
「ならば、同じことだ。登録などしなくても」
「しかしそれでは国はその時になってみないと戦力が把握できません」
「何様のつもりだ一体。全てを自分の手中に収めて把握しないと気が済まないと言うのか」
「あなたこそ何様のつもりですか。それではただのだだっ子だ」
二人の間に緊張が高まった。目を合わせ、立ち上がる。
「本気か、ララスクララよ」
「こうなれば」
二人は、呪文の組合せを考えていた。
「共倒れになりかねんぞ」
「仕方ありません」
「どこまで、概念上の存在に義理立てすれば気が済むんだ」
「それだけの存在ではありません」
先にスプララープスが短い音節の呪文を発する。ララスクララの回りに炎が生じた。ララスクララもすぐに呪文を唱え、吹雪を生み出した。炎は消え、スプララープスの服が凍り付いた。
「ふむ。成長したな」
「お蔭様で」
すぐに二人はもう少し長めの呪文を唱え始めた。やはりスプララープスが先手を取った。右手をララスクララの方に向けると、ララスクララは火球に包まれた。ララスクララの集中が途切れ、呪文は未発に終った。しかし、すぐ唱え直し、水の精霊を召喚した。これで、水の呪文は威力が倍加する。矢継ぎ早にスプララープスは水に対する抵抗の呪文を唱え、守りを固める。
「無益な闘いは終りにしよう」
スプララープスは懐柔を図る。しかし、ララスクララはそれには応えず、細く鋭い水流を作り出し、スプララープスの体を封じた。スプララープスは短い呪文を立て続けに唱え、小火球を三つばかり浮かべると、それを自在に動かして、水流を断ち切った。そして直ちに反攻し、ララスクララに火傷を追わせた。
「無駄な闘いは終りにしよう」
スプララープスは再び言った。
「国の方針に従うのですか」
「いや」
「ではだめだ」
ララスクララはスプララープスの足元から水を湧き出させた。そして一気に持ち上げ、スプララープスを包んだ。
「無駄なことは止めろ」
スプララープスは先ほど唱えた抵抗呪文により、水中でも呼吸や呪文の詠唱ができるようになっていた。ララスクララは優位に立てなかった。再び二人が同時に呪文を唱えた。スプララープスの服は凍り付き、あっと言う間にそれは氷柱に成長した。こんどこそスプララープスは見動きが取れなくなった。一方のララスクララも三連続で火球に包まれ火傷はかなり広範囲に亙った。お互い、自分を癒す必要があった。
「ララスクララ、終りにしよう。本当に共倒れになってしまう」
「しかし…」
同意しようとしないララスクララに、ついにスプララープスは一つの結論に達した。魔法を封じよう、と。もちろん、それは簡単なことではない。しかし、偉大な魔法使いスプララープスには目算があった。相手が呪文を唱える瞬間に、魔法を封じる呪文を唱えれば相手を封じられる。タイミングだ。
一方、ララスクララも、スプララープスの魔法を封じようと考えていた。一旦封じて、登録に応じた時に解放すれば良い。
最後の呪文を二人は同時に唱えた。
二人は静まり返った荒野に立っていた。まるで、音が無くなったようだった。しかし、そうではなかった。二人が失ったのは魔法だった。二つの封印の呪文はお互いを封印し、二度と元に戻らなくなってしまった。
世界中の力のある魔法使いはその瞬間、魔法の終りを悟ったと言う。
「ララスクララよ、国は何をもたらした」
「ただ、国の存続のみ」