イラキフは狩りに出た。短い夏に貯め込んだ食料が尽きようとしていたからだ。暗く冷たい氷の上を、いくばくかの保存食とモリを持って獲物を探して進む。
空には星が光り、南の空だけが赤紫に染まって夜明けのそう遠くないことを示している。
ふとイラキフは強く吹き付ける風の音に交じって、笑い声を聞いた気がした。
〈この時期に？ 空耳さ〉
しかし笑い声は再び聞こえる。先刻よりも判然と。
〈近付いて来るぞ〉
確かにそれは近付きつつあった。右前方から信じられないスピードで。そしてあっと言う間にイラキフの頭を突き抜けると、ドップラー効果で超低音になって遠離って行った。
〈何だろう〉
疑念は湧いたが今イラキフには集中しなければいけないことがあったので当分忘れることにした。そして、実際に頭の隅に追いやって意識からも消すことに成功した。
やがて、イラキフは一頭の海豹を見付けるとこれを難無く仕留め、住家へ引き返した。
帰り道、雪が舞い始めた。視界が次第に悪化し、方向も見失いがちになる。雪は顔の僅かな露出部に着き、融解して熱を奪う。
〈この海豹がもう少し近くに居たら今頃は家に帰り着いているのに〉
だが実際は、まだ半分も戻っていなかった。風雪はますます強くなっていく。その風の中にイラキフは再びあの笑い声を聞いた。笑い声は途轍もない速度で近付いて来ると、今度はイラキフの直前で停止した。
「さっきはごめんなさい」
笑い声の代わりに高い金属的な声でそれは話した。
「君は…」
「私はツギル」
「ツギル。それは君の名前、それとも…」
「私の名前よ」
まさに目の前にそれはいた。いくらか黄色がかった白い羽毛様のものに体を包まれて空中に浮かんでいた。ふわふわと柔らかそうだった。
「君は一体何者なんだ」
「ひかりもどき」
「ヒカリモドキ？」
「そう、光を運ぶのが私たちの仕事」
〈寒さで幻覚を見ているのか？ それにしてもひかりもどきなんて変な名前だ〉
「さっきは間違ってあなたの中を通り抜けちゃってごめんなさい」
「いや構わないよ。こっちは痛くも痒くもないから」
「でもお詫びをしなくちゃいけないの。これは昔からの掟だから」
「ひかりもどきの？」
「そう。間違って生き物の中を通り抜けたら、そのお詫びに願いを一つかなえてあげなくちゃいけないの」
「へえ」
「そういうわけで願いをどうぞ」
「…どうぞって言われても、神様じゃないんだから何でもかなうってわけじゃないだろう？」
「それはそうだけど、大抵のことはかなうわ」
「春にしてくれなんてのは無理だろうし…」
「範囲に依るわ」
「範囲？」
「例えば全世界を春にしちゃったら、神様に怒られちゃうでしょ」
「なるほど。じゃあここから家まで春にしてくれって言ったら」
「できるわ。願いはここからあなたの家までを春にすることで良いのね」
「ああ」
とりあえず他に願いも浮かばなかったからイラキフは頷いた。ひかりもどきのツギルは消えた。
やがてイラキフの周りに暖かい光が射し始め、雪景色の中に一本の光のトンネルができた。
「これで良いかしら」
いつの間にかツギルが戻って来ていた。
「ああ、素晴らしい」
イラキフは歩き出した。光のトンネルを家に向かって。
光のトンネルの中では気の早いコケが緑の葉を広げ始めていた。本当の春もすぐそこまで来ている。